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接客英会話の超・法則 Don't speak English ロゴ

Don't speak English !?

接客フロントマンの画像
「英語」を話そうとしない
 それは2番目でいい 

 通じればOK  簡単な単語を使う 

 より重要なのは 
 「ゲストの期待に応える」こと 

ゲストはあなたの流暢な英会話を
求めてはいないから

What is a hotelier for ?

Time is life itself

Once we stand on the stage,
we should be an actor, an entertainer
or a producer to make their stays beautiful.

It is just because the time they spend
with us is a part of their precious lives,
and we are given an opportunity to make it
an outstandingly memorable one for them. 







ホテリエの存在とは何だろう?

時は人生そのもの

ひとたびステージに上がったら、
私たちホテリエは
俳優、エンターテイナー、プロデューサーとなり、
彼らの滞在中の時間を素晴らしいものに
演出してあげることが使命ではなかろうか。

他でもない、
ゲストが私たちとともに過ごす時間は、
彼らの人生のかけがえのない大事な
ひとコマであり、その時間を
「最高の思い出の1ページ」にするために、
私たちホテリエがお預かりしているのです

Profile

接客英会話「超・法則」の講師 五十嵐秀樹の画像
接客英会話の「超・法則」講師
五十嵐 秀樹

1958年9月生 山形県出身 仙台市在住
現職:外資系ラグジュアリーリゾートホテル 
   総支配人

みなさん、こんにちは。五十嵐です。
現在私は現役のGM(総支配人)として、香港のオーナーからラグジュアリーリゾートホテルの全責任を負わされております。一見タフな職責と思われるかもしれませんが、そんなことはありません。GM職をひとつの役割として捉え、深刻にはならず、日々スタッフと過ごしております。
無責任と言われそうですが私は「本業=人生そのもの」と考えているところがあり、一秒たりとも自分の意志にそぐわないことをやるのはあまり好きではありません。 とはいえ、数字が最優先の外資系、毎日毎日stressfulな問題が発生します。でもそこは大丈夫です。対抗手段は、「俯瞰的な視点で捉える」、これを大事にしてます。
  ホテリエになりたかったわけではない
  • さて、そもそも私はホテリエになろうとは、これっぽっちも思っておりませんでした。

  • 40数年前に故郷の工業高校を卒業して、なぜか文系の「英語通訳ガイド(現在の呼称:通訳案内士)」を目指そうと、次男坊の私は東北山形の片田舎を出て東京にある語学の専門学校に入学することになりました。「東京での生活費は自分で稼いでやるならよし」という親の条件もあり、専門学校の紹介で始めたバイト先が、
    特に興味もなかった「ホテル」
    だったのです。


    当時のホテル業界は花形商売で、社員さんの給与は業種別でもトップクラスの時代です。 ちなみにバイトである私の時給は420円。これも高いほうだったと記憶してます。社員寮に入れてもらえたので学生生活も普通に送ることが可能でした。
  • そのホテル名は「銀座東急ホテル」
    現在はホテルチェーン再構築等の都合で営業しておりませんが、銀座の歌舞伎座から徒歩3分ぐらいの好立地、外国からビジネス、観光目的のゲストが非常に多い典型的なシティホテルでしたので、

    生きてる英語(口語英語)を毎日聞いておりました。

    ここが私のホテリエとして最初に基礎を学んだ場となります。 今でもいろいろ教えてくれた当時の先輩たちの顔が鮮明に思い出され、名前も全部憶えてます。
    あの先輩たちがいたから「ホテル」がだんだん好きになっていったのかもしれません。
  • 40数年前に故郷の工業高校を卒業して、なぜか文系の「英語通訳ガイド(現在の呼称:通訳案内士)」を目指そうと、次男坊の私は東北山形の片田舎を出て東京にある語学の専門学校に入学することになりました。「東京での生活費は自分で稼いでやるならよし」という親の条件もあり、専門学校の紹介で始めたバイト先が、
    特に興味もなかった「ホテル」
    だったのです。


    当時のホテル業界は花形商売で、社員さんの給与は業種別でもトップクラスの時代です。 ちなみにバイトである私の時給は420円。これも高いほうだったと記憶してます。社員寮に入れてもらえたので学生生活も普通に送ることが可能でした。

 経 歴 

1977年3月

山形県立鶴岡工業高等学校 卒業

1977年4月 
学校法人 神田外語学院入学 生活費のために「銀座東急ホテル」でウェイターとしてバイトを開始。
のちに天職になろうとは知らず(笑)
1979年8月 
国家試験「英語通訳ガイド」受験
結果:不合格 単語力不足が原因?
言い訳 : 当時は3次試験まであり、合格率が4%前後の時代でした。 現在は2次試験までで、ここ10年の合格率は約10%〜30% 訪日外国人数の増減が影響 ?
1984年4月
ホテルニューオータニ東京OBで故郷の先輩のT氏に誘われ、秋田市へ。
秋田ビューホテル入社。
フロントレセプションを担当。
この頃から「接客」について「こだわり」を持つようになる。
仙台のケヤキ並木の画像
1988年5月
同先輩に再度誘われ、杜の都 仙台市へ。
ホテルメトロポリタン仙台入社。
フロントレセプションを担当。
秋田市よりも外国人客が断然に多くなる。 この頃より外国人に感動してもらうにはどんな「知識」と「接客」と「英語力」が必要なのか考えるようになる。
型にはまらない「通じる英語」の存在に目醒める。
松島五大堂の画像
2000年10月~
花山温泉 温湯山荘 総支配人
松島センチュリーホテル 総支配人
他バジェットホテル数軒で総支配人、支配人職を歴任
和風ホテル客室露天風呂の画像
2016年4月
宮城県内
外資系ラグジュアリーリゾートホテル入社
2017年4月 副総支配人
2018年10月  総支配人 現在に至る

私個人のホテリエとしてキャリア最後の舞台と決め、今もなおホスピタリティを追求中。
仙台のケヤキ並木の画像
1988年5月
同先輩に再度誘われ、杜の都 仙台市へ。
ホテルメトロポリタン仙台入社。
フロントレセプションを担当。
秋田市よりも外国人客が断然に多くなる。 この頃より外国人に感動してもらうにはどんな「知識」と「接客」と「英語力」が必要なのか考えるようになる。
型にはまらない「通じる英語」の存在に目醒める。
松島五大堂の画像
2000年10月~
花山温泉 温湯山荘 総支配人
松島センチュリーホテル 総支配人
他バジェットホテル数軒で総支配人、支配人職を歴任